コロナ禍明け、7年ぶりに第二の故郷日本のステージに舞い戻る
ナイル・ロジャース&シック
text = Masaharu Yoshioka
■ディスコからデビュー
1990年代にはブルーノート東京に毎年のように来日。1970年代から80年代にかけて自身名義、他アーティストのプロデュース作品などでも多くのヒット放ったシック&ナイル・ロジャースが、2017年9月以来7年ぶりに来日、「ブルーノート・ジャズ・フェスティヴァル・イン・ジャパン2024」の2日目に登場する。
シックはダンス・ミュージック、R&B、ファンク・バンドとしてヒットを生み出し、ポップ、ロック・アーティストのプロデュースにも仕事の幅を広げ、それまでのディスコ・ファン、R&Bファンだけでなく世界的な人気を獲得している。
シックはもともとナイル・ロジャース(ギター)とバーナード・エドワーズ(ベース)が地元のライヴハウスでライヴ活動を行っていたバンドを発展させ、シックというグループにしたもの。1977年、当時まだ無名だったミュージシャン仲間のノーマ・ジーン・ライト、アルファ・アンダーソン、ドラマーのトニー・トンプソンらを誘い結成した。1977年初め友人のディスコDJの誘いで当時大ブームになっていたディスコを狙った「ダンス・ダンス・ダンス」という曲を録音。このサンプル盤12インチが一部のディスコで話題になり始め、紆余曲折を経てメジャーのアトランティック・レコーズからリリースされ、同年暮れからの映画『サタデイ・ナイト・フィーヴァー』の世界的大ヒットも追い風となり、大ヒット。
またナイルの歯切れのいいリズムギターとバーナードの抜群のグルーヴ感あふれるベースによるひじょうに個性的なサウンドがあちこちから引く手あまたとなり、プロデュース業にも乗り出し、シックのリード・シンガー、ノーマ・ジーン・ライトのソロ・アルバムやシスタースレッジのアルバムなどをプロデュース。また1978年8月には「ル・フリーク」を含む2作目『セ・シック』をリリース。全米だけで600万枚を売る大ヒットになった。
■髪を振り乱して女性弦楽器奏者
少し私事になるが当時大学時代の同級生がニューヨーク駐在となり、当時のニューヨークの人気ラジオ局WBLSなどをカセットにとってエアメールで送ってくれたのだが、もちろんシックなどのヒットが頻繁にはいっていた。その友人はシックのライヴがマジソン・スクエア・ガーデンであり見に行った。そのときの興奮をわざわざ国際電話をかけて話してくれたことがある。「吉岡、すごいぞ。ヴァイオリンのねえちゃんが髪振り乱して『ル・フリーク』のストリングスを延々やるんだ。あんなの見たことなかった」 その話を聴いた時には、それをまるで想像してこちらも興奮するしかなかったが、いまではこうして古いMTV以前の動画がユーチューブにのっていて、なるほど、このストリングスの彼女たちがライヴではもっと激しくやっていたんだろうとわかる。おそらく1978年くらいに弦楽器もいれたファンキーなステージを繰り広げていたのは後にも先にもナイル・ロジャース&シックくらいのものだろう。
■ヒップホップ/ラップ・レコードの誕生にも寄与
そして、1979年7月、シックはブラック・ミュージック史上に大きな歴史を残す3作目『リスク』をリリース。ここにはのちに現在まで続くラップ/ヒップホップのレコードの原型ともなる「グッド・タイムス」が収録されていた。バーナード・エドワーズが生み出したこのベースラインは、のちにシュガーヒル・ギャングというストリートの若者たちがそこにラップ(おしゃべり)を載せて「ラッパーズ・デライト」としてリリース。これが一般発売された12インチとしては初のミリオン・セラーを記録することになった。
その後、彼らはダイアナ・ロスの「アップサイド・ダウン」をプロデュース、さらにイギリスのロック・スター、デイヴィッド・ボウイに注目されアルバムのプロデュースを依頼され、できあがったのが『レッツ・ダンス』のアルバムだった。
これはしばらくヒットのなかったデイヴィッド・ボウイにとって久々の大ヒットに結び付けプロデューサーとしての格を一気にあげることになった。ナイルとバーナードの元には次々とプロデュースの依頼が殺到。寝る間もなく次々と仕事をこなすようになっていった。その中でもマドンナ、ロックのインエクセスなどは彼らのサウンドがポップ部門でも支持されて文字通りスーパー・プロデューサーとなっていった。
■第二の故郷となる日本からの依頼
1996年4月、彼らは日本から『スーパー・プロデューサー』のイヴェントの出演、プロデュースを依頼され快諾。大阪、東京2日のステージを大盛況のうちに終えた。3本のライヴを終えた彼らだったが、少し風邪気味だったバーナード・エドワーズが帰国予定日の4月18日、なんとホテルの部屋で急逝してしまったのだ。43歳だった。
絶望と失意のナイルは1年以上なにも手がつかなかった。そんなとき、やはり日本のブルーノートからライヴのオファーがあり、1997年10月、ナイルは新しいシックを編成し再度日本の地を踏んだ。以後、10回以上ブルーノートでのライヴで来日し、ナイルにとって日本は第二の故郷となった。
ナイル・ロジャースはステージで「僕は2度の癌サヴァイヴァーだ。そしてこのバンドは、R&Bもダンスもディスコもファンクも、ソウルも演奏する。だがこのグループはどの曲も僕の体(ボディ)と魂(ソウル)を絞り出して作っているサウンドだからソウル・ミュージックだ」とたからかに宣言する。
彼は90分のライヴではほぼヒット曲しかプレイしない。それは、初めて来た人も、何度か来た人も、あるいは毎回来る人にも必ず楽しんでもらえる選曲をしているからだ。他のアーティストに提供したヒットもメドレーにして見せる。その90分はほぼベスト・ヒット・ナイル・ロジャースだ。そして、それは多くの人の人生のサウンドトラックになっている。
一方、彼の音楽知識は膨大だ。かつてデイヴィッド・ボウイとアルバムを作っていた時、彼らは1960年代のマニアックなジャズのレコードの話を延々としていたという。デイヴィッドもナイルもありとあらゆる音楽を聴いてきて、それらのほんの一部を自分自身の音楽の中に取り入れ、実に幅広い音楽性を見せることに長けているのだ。そしてどちらも、エンタテインメント・ショーの神髄を知っている。
7年ぶりの来日コンサートはまちがいなく久々に彼らのライヴを見るファンにとっても、毎回必ずライヴを見るファンにとっても、初めてこのフェスに参加するファンにとってもコロナ禍明けのライヴとして、超一級の楽しめるエンタテインメント・ライヴになることまちがいない。
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LIVE INFORMATION
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Blue Note JAZZ FESTIVAL in JAPAN 2024
2024 9.21 sat., 9.22 sun.
Open12:00pm Start1:00pm
https://bluenotejazzfestival.jp
★NILE RODGERS & CHICは 9.22 sun. に出演!
▶︎9.21 sat.
NAS / PARLIAMENT FUNKADELIC feat. GEORGE CLINTON / MISIA & ⿊⽥卓也BAND / TANK AND THE BANGAS / .ENDRECHERI.
▶︎9.22 sun.
CHICAGO / MARCUS MILLER / NILE RODGERS & CHIC / SNARKY PUPPY / CANDY DULFER
吉岡 正晴(よしおか まさはる)
音楽ジャーナリスト/DJ。毎週木曜20時からJFN系列+東京インターFMで生放送されているブラック・ミュージック、カルチャーの未来・現在・過去をわかりやすく繋いで紹介する『AOR/ソウル・トゥ・ソウル』担当中。著書・翻訳書に『ソウル・サーチン~R&Bの心を求めて』(音楽之友社)他多数。X(@soulsearcher216)などで最新情報発信中。
X = https://x.com/soulsearcher216
ブログ = https://note.com/ebs/